「ご冥福をお祈りします」
お悔やみの言葉としてよく見聞きしますが、仏教徒限定の言葉だと知っていましたか?
輪廻転生の死生観がある仏教で、
「あの世で幸せになりますように」の意味合いがあります。
仏教では生前の功徳や悪行により天、人、修羅、餓鬼、畜生、地獄の六つの転生先があるそうですね。
「あるそうですね」と他人事のように表現しましたが、私にとっては他人事なのでしょうがない(笑)
お悔やみの言葉というのは、述べる人の心からすると、自身の死生観で述べるでしょうし、相手の人の立場になったら相手の死生観で述べるものでしょう。
どう見てもヨーロッパ出身の人が、お悔やみの言葉とともにアーメンと十字を切っても不思議には思いません。
日本人からすると、日本人とは異なる文化圏の人(と決め付ける)なので、不快感もないでしょう。
その人の気持ちを汲み取ることこそ第一義とする優しさです。
明らかに仏教徒ではなさそうな人、例えばキリスト教徒の方のお墓の前で、数珠を持って「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀」と唱える人もいなさそうですね。
聖☆おにいさん(講談社)http://goo.gl/fRUwcM
自身の理解する範囲で、自分の死生観や宗教観を押し付けないという気遣いができる優しい国民です。
この場合は、相手の立場に立つことができる日本人の美徳、またはどのような宗教もTPOに合わせて使いこなす器用さのなせる技だと思います。
日本人の大多数を占める仏教徒ですが、中には仏教徒以外の人も存在します。
仏教伝来よりも前から日本に存在する神道です。
(※お葬式を神道式(神葬祭)で行う割合は、2%ほどだそうですが、その経緯には江戸時代の檀家制度にありますが、長くなるので割愛。)
(※明治時代に神仏分離令が施行されなければ、神職の末裔である我が家でもお坊様のお世話になっていたかもしれません。)
キリスト教や仏教のように経典的なものがあるわけではありませんが、それなりに決まりごとや習慣があります。
(もっとも、イエス様もお釈迦様も、ご自身ではその教えを書き記してはいないそうですが。)
神道の死生観を簡単に言えば、
「人が亡くなると祖先の霊(神)に合流して守護神となる」という考えです。
どのような人生を歩んできても、地獄に落ちるとか、畜生道に入るとか、物騒な考えはありません。
生まれ変わるという死生観も持ち合わせていないので、冥福を祈られても、ちょっぴり困ってしまいます。
神道では「冥福」という考えがありませんので、当然「供養」という言葉も使いませんし、お線香をあげる習慣が無いので、「お香典」が発生することもないのです。
お香典に相当するものは「御玉串料」と言われます。
「お線香の代金」ではなく、「玉串の代金」の意味です。
当然のことながら、神道の通夜祭、遷霊祭、葬場祭では数珠は使いません。
いや、むしろ数珠はマナー違反に相当します。
大多数の人が仏教徒である日本、よく存じております。
また、身内が亡くなった時に心から哀悼の意を表してくださって、その方の心からの言葉で「ご冥福をお祈りします」と言ってくださったことも、心から感謝申し上げます。
ケチをつける目的で文章にしたのではないことは、重々ご承知くださるとは思いますが、皆様の今後の人生で出会うかもしれない神道の方が亡くなったときのために、少しでもご理解いただけるといいなと思います。
ここまで書いておいてナンですが、遺族と言葉をかけてくださる方の親しさで、受け取れる感情が変わるものです。
親しい方が心から「ご冥福をお祈り申し上げます」なんて言われたら、「ありがとうございます。励ましのお言葉に感謝します。」と思えるものです。
キリスト教徒の方から、「R.I.P(rest in peace/安らかに眠れ)」とコメントをいただいても、その方との親しさがあったからこそ「ありがとうございます」とお礼が言えました。
要するに、親しい人からの「言葉尻」を見るのではなく、「心」を汲み取れば、どの言葉もありがたく受け止められるものです。
2015年12月、父が亡くなって数日してからfacebookでご報告したときには、圧倒的多数の方々が「ご冥福をお祈り申し上げます」とコメントくださいました。
実は、それはそれは嬉しかったのですよ。
その節は本当にありがとうございました。
大きな励みになったことは事実です。
宗教観よりも、人の気持ちを大切にする世界になれば、差別や紛争も少しはなくなるのかな…などと殊勝なことまで考えてしまう今日この頃です。
追記
実家では、父が亡くなったお知らせの寒中見舞い葉書を出したところ、お線香をお送り下さる方が結構いらっしゃったとのこと(笑)
敬虔な仏教徒の叔母にプレゼントする予定です(笑)